20100628

VIDEOTAPEMUSIC IN KD JAPON  つづきのたび














ビデオテープミュージックの旅に便乗。



東京の演奏を名古屋KDハポンで観るシリーズ。
私にとっていまハポンは憧れの場所
ハポンでライブを観ることには旅の流れも含めて特別なことだ。
NRQやVTMをハポンで観たいと思った
いままでツアーのどこかで、いつもと別の街で東京の音楽を観たいと思っていたのが、今は「ハポンで観たい」と思う。


片想いのぐるぐる回るの出演が無くなって、MC.sirafuも名古屋へ行くことになった。
それに翌日我々は名古屋から東京に戻ってそのまま無善寺でパズーとハトたちという凄いバンドを観た。
正直この結果は私たちにとって素晴らしいことになったって思うよ。
ビデオテープミュージックがいたことと
ハイミドリがいたことに、救済された。


ビデオテープミュージックは、私がいままで観てた演奏とは方法が違う。
それでもそこに含まれてる意志はどんなメッセージのあるうたものとかより音楽的で先鋭的で、確信に満ちていて、なにより温度がちゃんと伝わってくるところが素敵だと私は思う。
似たような方法の表現はあるかもしれないけど、
まなべくんのしている表現はほかにないと思う。


音楽に関しては私がこんなふうに書くと、どうなんだろう、まなべくんに笑顔でディスられるかもしれないが。
でもこう、名古屋に行ってしまおうと思えたことも
実際名古屋に連れってってもらっても
ナベーの存在は私にとって(多分ほかのひとたちにとってもだろうけど)超絶なのだ。
ナベは声ちっちゃいしやさしい水鳥みたいな印象だけど、
存在として、すごいなって思う。
すごいと思わせない凄さ


4人で名古屋に行って、「ああなんて楽しかったんだろう」と噛み締めない。
それくらいあたりまえに楽しかった。
それは凄いことだと思う。
それを東京の演奏の写真で「VTMといくグルメ旅」にまとめました。
ただの家族旅行の写真だな。


そんな感じだったので、
ハポンで小鳥美術館に出逢った時に


何も情報はなくて、名前だけが気になっていた、
小鳥美術館はバンドではなくて美術館らしい。館長がギターを弾き 飼育係がうたをうたう。
館長の洒落てるけど土みたいなギターも
飼育係の声や、意表をつきつつおおらかなボイパ(と言っていいのか)も
スバラシイのだけど、そんなことを思う前に
音楽というものに否応無しに揺さぶられた。
何かを考える前にこころで音楽に気づかされた。

だからハポンに来れたことがこころから嬉しくて
小鳥美術館を観ながら、ナベありがとう〜と思いながら、号泣した。
今 小鳥美術館を思い出しても涙ぐんでしまうな。


たぶん小鳥美術館の音楽は名古屋シーンでこそ培われ育まれ生かされて私たちの目の前にあったのだと思う。
モモジさんの話をきいてそうゆうカンジがした。
でも、だからこそハポンで音楽を観る意味があるんだと思う。
決してマジックなんかじゃなくてね。


VTMの名古屋の演奏はあっと言う間に終わってしまったけど、私は満たされた。


それで私たちは、ハイミドリを観るために東京に戻ったんだ。
それで旅は終了、かと思ったけどそれも違うカンジだった。
たくさんの移動をしたけど、それはずっと繋がってて、
「東京帰ってきた」という感覚がなかったのはただ続いていたからだろうと思う。
いつからかずっとずっと、私たちがやることは全部つづき。
なにも切り離されていることはない。
ceroやいなかやろうやホライズンに会うこともつづき。
これから君と会うこともつづき。
おもいはうまく書ききれないけど。
嬉しかったとしたって、楽しかったとしたって、私は怒りも涙も忘れないよ。



きねんさつえい。肝心のナベがちょいブレだが。
でも素敵だったよーこれ。





飼育係、館長、MC、ナベ

20100623

しゃしん

写真を整理してみる

http://f.hatena.ne.jp/toukyounoensou/


フォトページ作る前の写真を過去フォルダにして少しアップしました。
ばらばらで偏ってて、ブレてるし ブログであげてるやつもあるかもしれませんが
こうゆうことあったねーと思うかんじ。
08年末から09夏くらいまで適当に。

東京の演奏の写真/過去


こうしてみるとやはり忘れてしまうことはたくさんあって写真をみると思い出す。
写真とろうと思うよ

Alfred beach sandal

円盤に行ったら倉林まつりだった


今日の円盤

Alfred Beach Sandal
三沢洋紀と南いちこ(ゆふいんの森)と岡林‘コゾウ‘大輔(THE BITE)
見汐麻衣(埋火)
3月33日(from京都)


だった。
しかし倉林哲也まつりだった。
全出演者一曲づつ、フルートで倉林さんが入った!
しかも見汐さんと3月33日さん(バンド)には今日初めて会ったらしい。
昨日三沢さんたちに誘われて来たら田口さんに全部でやればと言われたみたいだ。
なんかすばらしかったよ
特に見汐さんとのはすごかったな・・・
呼ばれるまですたんばっている倉林さんが何を考えているかもちろんナゾではあるけれど
そりゃあかっこいいよ。
倉林さん超かっこいいと思った。
こんなん倉林さんしかできないなと思ったし田口さんも倉林さんだからふるんだろうし
田口×倉林、やはり恐ろしいと思った
最後に一曲「器」を、3月33日さん(ギターの人がクリトリックリスT着てた)のエレキで
くらばやしさんはホラT着てた(あのPVの人だ・・・とずっと思っていた)
今日の円盤もとてもよかった。


しかし私はアルフレッドを観にいったのであーる


それを忘れそうになるほどくらばやしナイトだなと思ってたら北里くんもそんなこと言ってたのででも私は今日勝手に彼のライブを録音してたので(録音してからしたと言いました・・)自宅で楽しんで記憶を戻しております。
倉林さんが入った曲、フルート良いが、曲がいいなあとちゃんと思ってきいていました。


アルフレッドビーチサンダル、というソロ名義。(どうやらコーネリアスを意識しているらしい)
アルフレッドを観るのは何度目なのだろう・・・まだ三度目だ。
とてもいいCDを今円盤とかで販売中で、そのCDとのブレがないライブをするなと思う。
それでもライブ(生)の彼とパッケージされたアルフレッドは私的に印象が違う。
音源だけで充分な表現、という考え方があると思う。
音源で表現できたらライブは必要なのか?という考え方がある。
アルフレッドのアルバムは音源だけでも充分楽しめる優秀なカンジがある。充分だと思う。
それだけではだめなのかしら?
別に構わないけど。
でもだからこそ生で観る楽しさがある人だと思うんだよねー、なんとなく。その優秀さだけじゃないとこを楽しめる気がするし。
そして人との間で育つひとだと予想。
まあ彼がどうしたいかは知りません。
意外とライブを大事にしてる人なんじゃないかという予想。


北里くんの表現はコンパクトでおしゃれだと思う。なんか複雑でハイセンスな匂いも。
でも聴き続けていると明解でシンプルで単純に曲が面白いないいメロディだなと思う。
実際そんなきもちできいてりゃいいみたい。
あと物語があって、それはなんか小説というより百科事典みたいだと最近思う。
バイト先でよくこどもが国旗の本や世界の偉人百科などをみてたりするけど、あんなかんじ
きっと物語の舞台はどこでもよくて数多の可能性のひとつを俯瞰してうたってるかんじが非常にすてきです。
単純にことばののせ方が秀逸。
ギターも楽しく、声もええこえ。モテそうな声。ああいうもてそうな唄い方の人がまわりにいないなと思う。彼的には唄ってみたらああゆうふうにうたえちゃったんだもん、というカンジなのではないかと予想。
もし彼がここを読んだら言いたい事が山ほどあるだろうと予想。
北里くんの予想をするのは楽しい。
みんなもどんどん北里くんの予想をして、北里くんをいじろう!
ウイットに富んだナイスボーイだぜ。

20100621

バンドワゴン

ブログを書こうかどうか迷う。
おもいがけず(お客さんとしてきてた)気にしてる音楽家に会えたのがよかった。
彼とはなしするのは4月だかのライブ以来、私が彼のライブに行かなければ会えない人ではあるが、あまり遠くにいる感覚がなかった。ついったーのせいだろうか。それもあるけどそれとも違うんだろう。
あたらしいところであたらしいひろがりかたすればいいんだ。
そうゆうのがいいと思う。
同じはこ、同じ顔ぶればかりでは地下にもぐるばかり。
なにかひとつの線
いっぽんの糸さえあればするすると多くのものに繋がることが私たちはできるじゃないか。
そしてその線になっている人が私たちのすぐ近くにいる。
それは超ラッキーなのだ
のっかっちゃえばいいんだから。
いっしょに旅をしようと誘ってくれているんだから行きゃいいやって思う。
ほんの少しづつの幸福をもたらしながら。
その恩恵に気づく事もないかもしれないけど。
それでも日々変わっていくのだと思う。
それを私は信じているところがある。


若いひとたちの純粋なあたたかさで、私自身ひさしぶりに純粋にライブを観たようなきもちになった。
そう若くもないひとたちの奇跡的な集まりが、続いていることに安心感を覚えた。


人気者の吹奏楽者のハイテンションをみてて心配になってしまった。
彼女がどうして、なんで、ああいうハードにみえる活動を続けているのかは私はわからないのだけど、
多分使命を知っているんだろうなと思った。
自分が与えられるものを与えること。
それを選ぶ理由は知らないけど、「選んでいる」ってことになんか価値があるように感じるのだ、私は。
彼女は選んでいる、からこそ、その恩恵にみんながきちんと気がつきますようにって思う。


多くの連鎖やちいさいちいさいミラクルが
きちんと誰かに気づかれるように。
みんなじゃなくていいよ
それを求めている誰かに届くといいなと思う。


ブログを書くか迷ったのでこんな書き方をするのですが
あそこでかんじた何かカタマリを少し記しておきたかったです
そこにいたあなたにわかってもらえることがあるなら、それでいいかなと思う。

20100617

このメロディにのって愛しあおう

フライデーの音源を初めてきいたとき、東京っつーのはまだこんな音楽が隠れているのかと驚愕したものだ。
その衝撃と普遍の絶妙さよ
ライブみるの二回目
既にかなり肌に馴染んでしまっていざ良いトコロを言ってみるとなると みろや としか言えなくなってしまう困った事に
洒落ててキチガイじみたバンドだ
フライデーには誰も文句言えない気がする
真似できるものならしてみたいけどできるやつはいないだろう
そんなロックンロールバンド
ロックンロールなんて言葉は最早逆説的にしか使われなくても
正確にはフライデーはロックンロールなんかじゃないしね
ロックってもっと品が悪いものだと思うし
しかしフライデーにはスピリットが死ぬ程詰まっている
フライデーはオッサンが三人いるが
それは多くの音楽での条件を知るひとたちであり
その彼らが衝動を体現するときの凶暴さが最高に気持ち悪い/良い
フロントのアサダマオは「彼女」と呼ぶより「あの女」
「素敵」と言うより「いかれてる」と言うのが似合うと思う
しかしすばらしく品がある。
アサダマオは「売れたい」と言う
そんな馬鹿みたいに「売れたい 売れたい」と言える勇敢な女ボーカルを私は知らない
アサダ塾に書いてあることはなんも間違っちゃないと思う
アサダマオは音楽におけるラブアンドピースを信じている
音楽の在りようを真剣に感じている
それを愚かだと思う奴は自分では何も提示できないだけだと思う
才能ある志ある者を笑う前に何かをしてみろと思う
だけどその前にフライデーを観ればいい
そして皆で爆笑するのだ!その格好良さに。
あとビジュアルが完璧だと思うね、フライデー。


思わぬオクダサトコの演奏。
二曲しかやらなかったけど私たちにはとても貴重な時間だった。


関西育ちの女たちはなんだか格好良いな。
東京の、なんて言ってる小ささを思い知る。
 

20100616

hoca/horaizun yamasita takuhaibin




こんなことしたくないんだけどもうどうしようもないこの作品のまえでは

20100614

ばんせとなかまたち






アナホールクラブバンドレコーディングワンマンライブ。
アナホールには無駄に歴史があり過ぎて、時にむかつく。
アナホールは現場に来られなかった方からこうゆう↑メッセージをもらう、そんなバンドなのだった。
「ローカルパンク」に満ちあふれていたものをここで私が書く事も無い。


 

20100613

書き留めるふうのこと必要なぶん

思えば関口くんのチェロは、ずっとチェロの音が入ってる、というのと違う。
関口くんが次どんなのを弾くのかが楽しみなだけでずっと観てる。
私なんぞが関口くんとかの演奏をどーの言う気にもなれないのだけど(そんなのいつでも全部前提だけど)
でも関口くんの演奏というのは
いろんな顔を持っているけれどカラフルというより味わいだと思うし(チェロってのがもうそうゆう楽器なのかなもしや)
何をしてみても決して難解ではないと感じる。
もちろん演奏的に凄いのだろけど 曲として「難解」じゃあ、ないのだ。それが格好良いと私は思うのだよ。



表現(hyogen)を観ることはいつでも手ぶらでよい
何も持たずに聴くだけでよいということを許してくれる。
ただもう音楽をどうぞ どうもと無心で。
いつも表現を観た時に浮かぶイメージは、動脈とか静脈とか。水が流れるように血が巡り滾るイメージ。
「葬儀」という曲
表現ではないバンドが「葬儀」という曲を作ったら、ってフト考えた。
きっとそれだけで意味を深く考えさせられる気がしてしまったりするだろう。
でも表現の「葬儀」は
ただただ「ハレ」の曲として私たちは受け入れてる気がする。
葬儀の日を知らずとも、
続くことのひとつとして、
踊りたくなってしまうだろう。
表現だからこその数々を私たちは溢れる程に与えられてるハズ。
いま地続きで表現を観られていることも含め。
これはなんていうんだろうか、もとに還れる感謝とでもいうか。


なんとなく
ヒントの問題だと思う。


あだちくんはその時々で編成を変えメンバーを組み見せ方を変えている。
関口くんとシラフの時は特に印象が違うと思うけれど
だからいつも曲が違う雰囲気になる。
自分の音楽をヨク伝えるためにそう出来るメンバーをピックアップする、そういう「やりかた」であるけれど
そのやりかたを観てきて私は「鍛えられた」部分があると思っている。
単純に様々な楽器のアンサンブルを知れたり
可能性とかそれで生まれるイマジネーションとかを拡げたり
何か次のことを閃くためのヒントみたいなものが隠れてるカンジがするのだ。
そうやって、
もちろん基本的には演奏を楽しむだけだけれど、
きっとそうやって、
私はあだちくんにも鍛えられてきたと思うのだ。
鍛えてくれる音楽
それはもっとゆるく考えれば、リスナーにヒントをくれるってことだと思う。
何が面白いのかを。
何故面白いのかを。
提示してくれている。
気づけば私はそうゆうものを求めるようになってきている。
それは私が音楽のことわからないから、学ぶことを重視している、っていうだけの話ではないと思うんだけどね。
あだちくんの悪ノリは時にしょーーもなくて、
場所がどこでもそれに変わりなくしょーもないが、
ライブにおいて「進化を共有させてくれる感覚」を作れる人は、実はそういない気がするんだ。
あらぴーが作った曲は、彼らで演奏する良さがあった気がして、それがとてもよかった。


今日はきみやくんのサックスに続く麦ちゃんのトランペットで思わず笑いがこみあげた。
笑うしか無いスゴさの笑い。

20100611

シビレタ






何故こんなPVが出来上がったのかということにおいて、どうやって撮ったのか想像もつかない。
音楽を聴いていながらホライズンを知らないということは、不運だと思う

20100606

野田薫「あの日のうた」

すごく長くなりそうなのでつきあえない人はここまでで。
全部かく かいてやる 感情的なんだ いま







ここ最近野田薫ばっかずっときいていたのです
「あの日のうた」
もちろんほかのCDもすばらしいものが何枚か手元にあって聴いているけど、最初に聴きたいと思うもの、そしてまた戻りたくなるのが野田さんのアルバムだった。
そしてレコ発から帰ってまた聴きたくなっている。
私のそれは、きっと正当な音楽的評価ではないはずだ。
私にはこのアルバムの「良い部分」については詳しく話すことができないもの。
中毒性、と言ったひとがいるけど
思い当たる。
あるとき 離れ難い と思った瞬間があった。
ずっと一緒にいたいと思ってしまった。
「あの日のうた」と。
それからずっと一緒にいた。


中毒性といえば
「あの日のうた」のレコ発に招かれた二組にも思い当たる。
片想いと尾林星。


片想いと尾林星と野田薫。
これ、野田さんどうゆうセンスしてんだ!というくらい高度な企画だ。
それに気づかない人は残念だとしか言いようがない。


片想いは 久しぶりで想い出深い(ような気にさせられる)曲をたくさんやっていた。そんなことどうだっていい。
今回は スティールパンがあった。そんなことどうだっていい。
今回は 西荻の若大将チェリスト関口将文が参加した。そんなことどうだっていい。
えんちゃんが 踊りを強制されていた。そんなことどうだっていい。
シンくんは 当日やってきたボクササイズを軽く取り入れていた瞬間があった。そんなことどうだっていい。
いっしーが アドリブで凄まじいメンバー紹介をした。そんなことどうだっていい。
設定が 高度過ぎたけど大丈夫だったのだろうか。そんなことどうだっていい。
あの曲をやってあの曲をカヴァーした。そんなことどうだっていい。
そんなことごとはどうだっていいのだ。
片想いがいつもやっていることである、いつもはやらない、ということをやってただけだ。
片想いは本当に美しいバンドだ。
なんかおっさんばっかいるけど本当に美しいのだ。
美しい、なんて言葉でまとめると寒気がする。
だから好き。
私は片想いメンバーのこと、好きすぎる。



尾林くんはエフェクトを取り入れていた。
2010年宇宙の旅みたいだった。
(ああいま2010年なんだな)
(でもたぶん私が思ったのは2001年のほうだきっと)
正直全体の構成が高度過ぎてみんなついてけないぎりぎりだったが、最後には勇者でハートをつかんだ。
マイペースだった。
別に誰もついてけなくていいんだと思った。
それはだめだけど、いいんだと思ったのは、
尾林星はやっぱ無敵になったと思ったから。
敵だったものはもう、ただの気分だ。
それでいいんだぜ!
それにしても、ロックスターみたいだった。
尾林くんはステージにいないときほぼオーラが無い。
影のようにどこかにいる。
そんな尾林くんがとても好きなのさ。



この二組を知った時私は中毒を起こした。恋をした。
私が心からその音楽を愛するひとたちである。何があろうとだ。
そして今回は恋して真っ最中の野田さんがいた。
あるとき 野田さんがすごく好きだ と言ったら
野田さんが?野田さんの音楽が?と訊かれた。
そんなの、、、どっちもだろ〜 、、、 え? と思ってそのときうまく返事ができなかった。

私は「野田さんの音楽」が好きなんだと思う。
だけどその音楽をしてる人は当たり前に好きになる。
私は彼らに音楽でしか知り合えなかったかもしれない。
それでも音楽で知り合ったなら、音楽が素晴らしかったなら、とても好きだったら、
何があろうとその音楽をしている人が好きに決まってるのだ。
そんな私はおかしいかもしれないけど、私にはどうしてもそれしか信用できない。
変態かもしれないし、そうだと言われて安心したこともあります。



野田さんはアルバムの曲を順番に演奏した。
アルバムに収められているとおりの編成で
つまりそれはアルバム聴きまくっていた私にとって「生だ!生!CDの!やつ!」という興奮をもたらす。


「秋のおとずれ」 チェロ関口将文とグランドピアノの前にいる野田さんが、いきなり素晴らしい絵面、かっこよすぎた。関口くんのチェロもかっこよすぎた。

「ただあたりまえに」 大河原明子、古川麦のツインホルン。絶対的に壮観。想像を超えるきもちゆさぶられかたをした。クールでやさしかった。ホルンのアレンジはMC.sirafuらしい。

「メロディー」 野田さんひとりで。野田さんの歌は言葉より先に印象がきもちを打つ。「ああ、」っていうフレーズできもちをつかまれたり。

ここでピアノのインストが入った(ここだったと思う)私にはピアノ曲の善し悪しはほんとにわからない。わからないから、すごくいろんなことを考えた。野田さんの曲について。書けるようなことは何もないけど。

「ふと想う」 この曲はアルバムとは少し違う編成だけど 関口くん、麦ちゃん、シラフ、あだれい、この、この、ひとたちを「従えた」野田さん、眺めているだけで凄かった。そして祝福と幸福の音の嵐!あだち麗三郎は「あの日のうた」プロデューサーでありレーベルオーナー。

「わたしの知りたいこと」 ピアノ弾きの野田さんがハンドマイク、西井夕紀子がピアノ。それだけに、ゆっきーはなんていうかすごく責任を持って演奏をしてるんじゃないかと思う。ゆっきーはずっと野田さんの姿をみながら演奏していてぐっときてしまった。それを伝えたら「見ないと合わせられないから〜」と言ってたけど、それはやっぱゆっきーが野田さんのために、ピアノ弾いてたってことだと思う。

「あの日」あだれいドラムとふたりでアルバム最後の曲。うう。


野田さんはアンコールやる気はなかったようだけど、そこはやるでしょう。
新しい曲を、それはやるでしょう。


あーなんだか 書ききった感があるけど、まだ終わってない。
ぜんぶかく


「あの日のうた」は6章に分けられた小説のように一貫したストーリーがあると思う。
そうゆう言い方ってありふれてるか?
でも実感した。こうゆうことかと思う。
6曲を何度もくりかえして、くりかえす度に必ず感動した。
歌詞の意味とか考えなくても、なにかひとことが響く瞬間瞬間にとても深くはまってしまう。
ピアノのイントロが始まると言いようの無い安心を感じたりする。
小説でいうなら、物語の流れではなく、文脈の美しさとか描写の確かさに感動するみたいなことだと思う。
そしていつのまにか全体の素晴らしさを知っている みたいなこと。
野田さんの声がいつでも頭のなかにある。
これ、何だろう?
と、ずっと思っているのだけど、わからないまま、ただとにかく聴くだけ。


再生回数の多さは、音楽の素晴らしさなのか?
それが私ははっきりしない。
たとえば井手リョウさんの音楽を聴くのも、野田さんと同じような感覚だ。
とにかく何度も聴きたくなるけど、褒めようが私にはわからない。なんだか失礼な話みたいだけど、
私に言えるのは、
好きだということだけだ。


「あの日のうた」は今回出演したみんなのバックでの演奏、やっぱりそこも私には大切なことだった。
いつもとは違う楽器の音でも、いつも聴いてるブラシの音でも、これ知ってるなあと思うみんなの音があって、なんだかたまらなくなるよ。
それを繋ぐ野田さんのうたに、なんか救われていたような気がする。




と いうようなことを簡潔に、少しさっぱりめに レビューを書かせていただいたので機会があったら読んでください。スポッテッド701の今月出る号です。そこに書ききれなかったことをいまかきました。
轟渚さんと三輪二郎さんもいっしょに書かせていただきました。
文章としてはアホさのみですが 私の気持ちだけでいいと思いました。
これからも そうする

20100603

投げ銭

松倉さんの投げ銭ライブに行った。
ライブの内容はたいせつにこころにしまう。
対価についてちょっと思ったこと。


武蔵野公会堂でチャージはなかった。帰りにばけつにみんなでお金を入れて帰る。
今日の松倉さんたちのステージに対して、自分の気持ちを入れるのだ。
私は正直自分の生活事情を加味してお金を入れた。それって「今日の対価」ではない。
じゃあ、たとえばいくらでも持っていたら、いくら入れただろう、と思った。


普段ライブハウスではチャージ(ドリンク代)を入れて2,000円から3,000円払っている。
それがインディーズの相場で、それを払えば最初から最後まで観ても途中で帰ってもなんでもいいわけで。
今日はいいライブを観られたから、チップをあげよう!ということは
稀にあるかもしれないがほぼないだろう。
CDやグッズを買ったり一杯奢ったりでその気持ちを表すことはあるかもしれないが。
私たちは「対価」ではなくて、「きまり」を払って好きなように観ているのだね。
そしてそれは果たして安いのか高いのか。
安いと思うときもあるし高いと思うときもあるのは内容次第というか
自分がどうゆう時間を過ごしたかによると思うけど
でも実際ギャラとか設備とか人件費とか考えたらどういう内訳なんだろう。
いつもそんなことは考えずその「きまり」をなんとなく受け入れてそういうもんだと思っている。
「お代」には何でも相場があるけど、表現に相場があるのだろうか。


本当の対価を払うということはきっと難しいことで
敢えて松倉さんはそこに挑戦した。
だからこそもっと入れたかったですね、っていう
小さいはなしでごめん。