20101111

片想インザハウス

これでまだ4度目だけど。ハポンにライブをみるために名古屋に行くこと。
それは楽しいことしかない!
ライブ前に街をぶらつくうちも含め、名古屋では何が起こっても楽しい。旅のテンションだけでもなく、名古屋に行くことはそれだけで私にとって大きな確かなおたのしみなのだ。


ハポンに行けば確かなものがあること。
いつもこうじゃないとモモジさんは言ってた。
もしかしたら私は観光気分なだけかもしれない。
同じことなのかもしれない、東京でも。
だけど少なくとも、空間として、東京でハポンに及ぶ場所は知らない。


今回は一年ぶりのハポンの片想いだった
彼らは前日の神戸の旅の流れを持っていた
けど私は神戸にはいかなかったから、違うテンションを覚悟して観に行ったよ。


いつも思う。東京でも。ライブハウスに足を運んで、演奏の前に片想いの人々ひとりひとりに会っただけで、それだけで私は来てよかったと思ってしまう。
彼らが迎えてくれる意味を私は必要以上に感じてしまう。私はこの人たちに会うために来たんだ、と思う。



この日のイベントは三組、
Drag and Drop、カタリカタリ、片想い


最初のDrag and dropが始まった時から、名古屋という場所に圧倒された。
私は名古屋のライブハウス、ハポンにしか行ったことはない。
けれどハポンにいくたびに、東京では観られないものを知る。
東京でこうゆう音楽があるだろうか?
似ているものを想像しても違う、名古屋の音楽の豊かさを思い知らされるような。
土地独特の空気感もあるのかもしれないけど、それに縛られている音楽ではない。


そして小鳥美術館のふたりが素晴らしいと言ってたカタリカタリを楽しみにしていた。その期待には緊張感すらあったのだけど
演奏を観たらそうゆう緊迫ではなく、もっとシンプルな感動だった!
こんなにかっこいいバンド知らない、と思った瞬間があった。
あんなメロディきいたことないとも思った。
忘れたくない。どうにかしてまた観たい。


そうゆう熱の中で最後に演奏した片想い
ceroの三人を含めMAX11人!
当然音はわいのわいのしてたかもしれない。
実際絵面カオスだったし。
けどそれが片想いだと思った
私は片想いの演奏が今日はいいとか悪いとかなんていつも考えない。


それよりも彼らに求めることは、その「場」をどうするのかということ
そこにいる私たちにに何を及ぼすか
片想いはそうゆうバンドだと思ってる。


片想いの楽曲は素晴らしい。けれど誰が演奏してもいいわけじゃない。
彼らがやるから片想いなんだ。
音楽は人だ。
それが彼らに会いにいく、ということなのです。



それと同じように、ハポンにはモモジさんに会いに行っているのかもしれない。
小鳥美術館のふたりにも会えた。
ミステイクが来ててびっくりした。
その場所でひとに会うということ、
その場所で音楽に会うこと。いっしょだ。



あんな片想いはみたことがなかったし、あの片想いはもう観られない。
これからどんなよい演奏をしてもよいシチュエーションでも、
この日のあのライブはもうこの日だけしかできなかった、味わえないものだったと思う。
一回一回のライブ、それは当たり前かもしれないけど
この時のハポンは当たり前じゃなかった。



きっと片想いとceroにとっては前日の神戸で良き体験をしたこと
ステージと客席の境のないハポンとゆう空間、音楽の場所としてのスタンス
素晴らしい共演者
それをセッティングしてくれたモモジさん
カタリカタリにアンコール、片想いには二度のアンコールをしてくれた名古屋のお客さんたち
わけがわからないうちに空間が構築されて
私にはそのエネルギーが目に見えるようだったし

そうゆう全てが尋常でない密度の瞬間をつくっていた。



(もっといえば去年のcero想いツアー
さらにいえばいくらでもいえる、個人的なことだっていっぱいある
オラリーとたかぎくんの共演とかだって(笑))



そうだよ私は、思い入れがあるだけなのかもしれない。
だけど音楽の楽しみにそれが必要ではないとは思わない。
私はそうゆう気持ちを求めて音楽に関わりたいのだ。
そうゆうものだと思い続けたい。
だから今回名古屋に行って、あそこであの片想いをみることができて、よかった。
私はこうゆう瞬間のために音楽をみているんだと思う、その瞬間だった。




台湾ラーメン食べられなかったのが心残りなので、また行きます。




てか次回はバンパクまつりなのか!?

きっと素敵だよ。

なんだか明るいかんじしか、想像できない。





 

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