20100613

書き留めるふうのこと必要なぶん

思えば関口くんのチェロは、ずっとチェロの音が入ってる、というのと違う。
関口くんが次どんなのを弾くのかが楽しみなだけでずっと観てる。
私なんぞが関口くんとかの演奏をどーの言う気にもなれないのだけど(そんなのいつでも全部前提だけど)
でも関口くんの演奏というのは
いろんな顔を持っているけれどカラフルというより味わいだと思うし(チェロってのがもうそうゆう楽器なのかなもしや)
何をしてみても決して難解ではないと感じる。
もちろん演奏的に凄いのだろけど 曲として「難解」じゃあ、ないのだ。それが格好良いと私は思うのだよ。



表現(hyogen)を観ることはいつでも手ぶらでよい
何も持たずに聴くだけでよいということを許してくれる。
ただもう音楽をどうぞ どうもと無心で。
いつも表現を観た時に浮かぶイメージは、動脈とか静脈とか。水が流れるように血が巡り滾るイメージ。
「葬儀」という曲
表現ではないバンドが「葬儀」という曲を作ったら、ってフト考えた。
きっとそれだけで意味を深く考えさせられる気がしてしまったりするだろう。
でも表現の「葬儀」は
ただただ「ハレ」の曲として私たちは受け入れてる気がする。
葬儀の日を知らずとも、
続くことのひとつとして、
踊りたくなってしまうだろう。
表現だからこその数々を私たちは溢れる程に与えられてるハズ。
いま地続きで表現を観られていることも含め。
これはなんていうんだろうか、もとに還れる感謝とでもいうか。


なんとなく
ヒントの問題だと思う。


あだちくんはその時々で編成を変えメンバーを組み見せ方を変えている。
関口くんとシラフの時は特に印象が違うと思うけれど
だからいつも曲が違う雰囲気になる。
自分の音楽をヨク伝えるためにそう出来るメンバーをピックアップする、そういう「やりかた」であるけれど
そのやりかたを観てきて私は「鍛えられた」部分があると思っている。
単純に様々な楽器のアンサンブルを知れたり
可能性とかそれで生まれるイマジネーションとかを拡げたり
何か次のことを閃くためのヒントみたいなものが隠れてるカンジがするのだ。
そうやって、
もちろん基本的には演奏を楽しむだけだけれど、
きっとそうやって、
私はあだちくんにも鍛えられてきたと思うのだ。
鍛えてくれる音楽
それはもっとゆるく考えれば、リスナーにヒントをくれるってことだと思う。
何が面白いのかを。
何故面白いのかを。
提示してくれている。
気づけば私はそうゆうものを求めるようになってきている。
それは私が音楽のことわからないから、学ぶことを重視している、っていうだけの話ではないと思うんだけどね。
あだちくんの悪ノリは時にしょーーもなくて、
場所がどこでもそれに変わりなくしょーもないが、
ライブにおいて「進化を共有させてくれる感覚」を作れる人は、実はそういない気がするんだ。
あらぴーが作った曲は、彼らで演奏する良さがあった気がして、それがとてもよかった。


今日はきみやくんのサックスに続く麦ちゃんのトランペットで思わず笑いがこみあげた。
笑うしか無いスゴさの笑い。

0 件のコメント: