20091121

オーケストラの夜

ceroは6人でばちこんだ。
吉田さんの二胡は以前の江戸の時よりキタ!
これだね。きたね。感があり、
cero+ニコではなく1/6の吉田。

それでいえばシラフのイメージは1/24×αみたいなカンジだ。

西東京サポート協会の強者を巻き込み、それによって数多のアイテムを手に入れ、自らもひとつのパートに囚われることなく幾つもの楽器を曲ごとにこなし、無限のアイデアを循環させている。
そういうceroのやりかた、彼らにはあまりにも当たり前になってるけど、こんなバンドは少なくとも私が今みてるなかではceroだけ。
それは彼らがやりたいこと、彼らの楽曲には必然であるだけで。
ドラムス、ベース、ギター、ピアノ、電子鍵盤、クラリネット、トランペット、ニコ、鍵盤ハモニカ、スティールパン。ギタリストがギター置いてクラふいたり、ギターボーカルがベースひいたり、ベースがピアノひいたり、左手でキーボードたたいて右手でトランペットをふくひとまでいて、これは単純にエンターテインメントなはずなんだけど、そこより楽曲に気持ちがいくとこが、必然てことだよね。


ていうのは、説明でした。


この日私は2度、いままでのceroで体験しなかった感動をした。

大好きなoutdoorsで。

それから大停電で。

ただ、こう書いているくせに、どうして、どのように感動したかは忘れてしまっているな。
きっと楽曲が出来上がってそこに浮かんでいるそのかたち、みえないはずのかたちをみたこと、ceroが今それを作っていることに感動したんだろう。
おそらくそんなことだと。
ceroは、感動させようとはしていない、といつも思う。たとえば歌詞とか、泣かせのメロディとか、ここでみなさん感動するであろうからこうです、みたいな作業はしていないはずだ。
憶測。
聴いててそう感じないから。
それでも痛みや悦びに襲われて拐われてしまう。
それが感動というんだろうと思う。


ceroははたからみたらとてものほほんとしてて、恵まれた子たちだ。
そうみえるceroを含めて、彼らが同じ視点でこういう音楽をしていることって、奇跡的なのかもしれない。
バンドによって奇跡はかたちが違う。それぞれの奇跡をどれだけ研ぐことができるかだと思う。
研ぎ澄ますことができているからceroが無二になっているんだと思う。


そして、ceroの熱ってのは、やりたいことができることによって燃えてるというか
シラフを迎えてからさらに自由度が増してやりたいことをいくらでもかたちにできる可能性とか
5人で、そして今回吉田さんを迎え6人でどこまでできるかという可能性とか
そんなに面白いことってないんだろうな。

で、
そうなってくるとじゃあタイトなceroもみてみたいねとか、そんな、ceroだけに、言ってしまうような気持ちも湧いたりするけど、そんなんはceroはいつだってできるんだ。だからそれはどうでもよくて、いくらでも膨らんでしまえばよかろう。
また私は膨らんでいくceroに恐怖を覚えたりするのかもしれないけど、結局、ライブをみたら、満たされる。
そうゆうライブをこれからもいつでもやってほしい。
そうやって、ceroの音楽とともに私たちの生活があったらいいな、これからもいつまでもな。

0 件のコメント: