20100724

すべてのそとのきみたちにも

音楽を観るときは、だいたいお金を払う。
演奏を聴かせてもらうからだよね。
無料にしたい、と思う人がいるなら、出演者とお客さんの間でうまく還元できてないと感じるからだと思う。
でも今日のあだちゃんライブのように場所と音楽とお客さんを(それぞれ充分でなかったとしても)うまくまわらせるやり方もあるし、それを考えてる人もいる。少なくとも今夜モナに行って食事だけをするつもりはなかったはずの人たちが、無料のあだち×倉林ライブがあったから足を運んでお酒をのんだ。お酒呑んできもち投げ銭して下手したらいつものライブよりお金を落としたかもしれないけど、お客さんみんなそれに納得してお金を使ったと思う。
私たちが場を選んだからこそだったと思う。
そうゆう中で私は、お客って何なのかなってこと考えてしまう。
演奏する人は、お客さんのために音楽をやっているわけじゃない。
お客さんは、演奏する人のために観に行ってるんでもない。
見え易く言ってしまえば、みんな自分の気が済むように、それぞれのことをしているんだと思う。
ただ私はそこにそれぞれの「気が済む」で完結する自己だけだとは思えなかった。
そこまで自立したものだとは思えなかった。
だから私はブログを始めたし、企画をやることにした。
ブログには今何を記しておくべきかをその都度考えるし、
企画は面白いけど楽しいとは思ってない。勝負だと思ってる。
だけど、そんな風に思っているのは私だけみたいだった。
みんなにはそれぞれの音楽があるし、
私は企画も素人で音楽のことも何も知らない。
そんな私の力では何も与えられなかった。
でも、音楽をやっているほうの人で、私の考えを解ってくれる人に逢った。
私の考えはただのリスナーのエゴじゃないんだと思えた。救われた。
このブログに誰か音楽の名前が出ることそのものは、どうでもいいことだ。
私にとって、私の書いたひとことでも、それで救われたと言われた時、
私も救われる。
ライブに行って、ありがとうと心から言われた時、
それで、私も心から今日の演奏ありがとうと思えた時
そうゆうことが音楽とリスナーの関係じゃないかと私は思ってる。

ありがとうと言った瞬間に生まれたきもちを見逃さないこと
演奏に逃げないこと

自分の音楽と、自分の音楽を聴いてるお客さんと向き合うのを避けたら終わりだと思う。


はっきり言ってお客さんは取り合い
イベントがバッティングしたとき、家計の事情でライブを選ぶとき
私たちが というか少なくとも私が選ぶのは、「その先」だ。
どこかへ繋がって行く感覚がある場所へ行きたい。
ライブは娯楽だけど、私にとって生き方なんだよ。
くだらないかもしれないけど、
今日の演奏をどう受けとったかで生活が変わってしまうと思ってる。
だから真剣に受けとりたいし、その先へ進みたいんだ。
娯楽だよ、ただの。
でもほんとにそう思うなら、もっと別のものいくらでもある。
本気でそう思えるなら、音楽以外のものだっていいんじゃないの。


音楽のすごいとこのひとつって
関係性だけで生むことができるってとこだと思う
自分たちだけの世界を守り続けることは美しい。
でもそれが醜くなることがある。
守るために逃げることと
理解を求めない振りをすること。
欲しかったら手に入れたらいいよ。
手に入れる方法なんて、君のひとことの言い方だけだったりもするよ。
「その先」っていうのは、その程度の事のなかにあるし。


なぜいまこれを書いているかというと。
ここ何日かで怒りに似たものを感じたからと、
書かないことが無責任だと思ったから。
あんときと一緒です。
そして
私はやっぱりこれからたくさんの批判みたいなことを言ってしまうと思う。
時には名指しするかもしれない。
でもなんで私がその発言をするのか、解ってほしいから。
理解できなくても、考えてほしいから。
だからこうやって書いたことは言い訳なのかもな−・・・
言い訳と自慢とつまんねえ話は、私嫌いだ。
こんな文章書いてないで、自分のやれることをやるだけだというのも、わかってるよ。

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